冷凍葬/カラトド
人魚姫。子どもの頃、絵本で読んだたくさんのおとぎ話の中の一つだった。
人魚姫は深い海の底のお城に住んでおり、人間の世界に憧れていた。十五歳になり、外の世界へ出ることが許された人魚姫は、海の上で偶然出会った王子様に恋をする。人魚姫は魔女のところへ行き、自分を人間にしてほしいと頼む。魔女は人魚姫の美しい声と引き換えに二本の脚を彼女に与えた。「ただし、王子が他の女と結婚するようなことになればお前は海の泡となり、消えゆくことになる。それでもいいのか?」と、言われ。それでも構わないと、自らの舌を差し出す。それから再会を果たした王子様は人魚姫を妹のように可愛がり、共に幸せに暮らしていくのだが、ある日王子様が他の女の人と結婚することになってしまう。人魚姫には姉たちがいた。その姉たちが魔女から預かってきた短刀を人魚姫に渡し「日が昇る前にこれで王子を刺せば、その返り血が脚に飛び散り、あなたは人魚に戻れるのです」と言い残し、姉たちは海の底へと消えて行った。人魚姫はその短刀を震える手で握り締め、真夜中の寝室で寝息を立てている王子様に向かって振り下ろそうとしたが……。
色々と端折ったが、ストーリーとして大体こんな感じだったろう。おとぎ話の中では結局人魚姫は王子様を殺すことができず、海の泡となってしまう。切ない恋のお話。別にこの話が特別好きだったわけでも何でもない、ただ何となく思い出した。それだけだった。
「それじゃあ、まるっきりダメだぜ、トッティ」
「うるっさいなぁ……」
「もっとこう、手首のスナップを効かせてだなぁ……そら、貸してみろ」
「嫌だよ、兄さんにできっこないだろ」
「ったく……とんだ意地っ張りボーイだぜ」
「ほんっと、うるっさいから黙っててくんない?」
「お、そうだ。上手いじゃないか」
「上手いも下手もないでしょ」
「いや、大いにあるぞ。それにきちんとラブも込めなければダメだぁ」
「込めてどうすんのさ」
「それは自分で考えろ。いくらオレが頼れる兄貴だからって、何でもかんでも聞くのはお前のためにならない」
「はいはい」
「はい、は一回ってマミーに教わらなかったか?」
「教わらなかったね」
「オレは教わったが」
「はいはい」
「トド松」
「はいはい」
「もっと丁寧にラブを込めるんだ、一回一回優しく。レディに触れるときみたいに」
「ないでしょ! 触ったこと!」
「あるかないかは問題じゃない。蒔き方が下品だぞ、もっとしなやかに」
「いや! どこが!? 全然普通じゃん!」
「そんなに大声を出したら、せっかく撒き餌をしたのに魚が逃げていくだろ」
「カラ松兄さんが隣でちょっかい出してくるからでしょ! マジで、黙って見ててよね! ただでさえボク一人でやりたい気分だってのにさ」
「……そんなに冷たいことを言うなよ、オレだって最後まで見届けたいんだ」
「それは分かったから、静かにしてて」
「ラジャー」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「黙られたらそれはそれで気まずい」
「フッ……そんなことだろうと思っていたさ、寂しがりやめ」
「うん、やっぱり黙って」
照りつく太陽、青い空、白い雲、青い海、白い砂浜、立ち並ぶ海の家と、波間ではしゃぐビキニギャル、「ちょっとそこのオニイサン、背中にオイル塗ってくれない?」なんて、そんなもんは幻想。しかも一昔前。人生そんなに甘くない。だって、仮にもし目の前にいるのがビキニギャルだとしても、ボクの隣にいるのはこのカラ松兄さんな訳で、その時点ですでに、戦わずしてすでに、敗北が決定しているようなもんなんだ。どこへ行っても負け戦。哀れなトッティ。悲劇のヒロインポジション。もう一度言おう、哀れなトッティ。人生というものは、なかなか自分の思った通りには進んでくれず、大概が良くも悪くも突然のアクシデントと自分自身の選択からできている。「自分の思ってもいない方向に進む人生が好きなの」だとか、どっかのマンガのビッチな女のキャラクターが言っていたのを思い出した。ボクはそれには賛同しかねる。誰だって自分の思った通りに人生が進んだ方がいいはずだ。ボクは断然そっち派だから。
現実は、発泡スチロールの箱からお玉ですくって、海に撒き餌をしては釣竿に握り変え、海面に糸を垂らす。なんて地味な絵面だろうか。しかも全く魚は寄ってこないときた。おかしいなぁ。いないわけは、ない。さっきまで隣にいたおじさんがバンバン釣れていたのはボクも見ていた。それもこれもこのカラ松兄さんのイタさと暑苦しさが原因な気がする、撒き餌にラブを込めろとかいうバカみたいなことを言ってくるもんだから集中できないんだ。それだから魚の気配も感じ取れない。ちなみにこの季節だから、狙うはアジ。八人家族分は海釣り初心者にはちと厳しい目標かもしれない。母さんに頼んでアジフライやら、アジのたたきにしてもらおうと思ってたんだけどな。成果がゼロだったときのことを予想して、いつものように誰にも告げずにこっそり出てきて正解だった。さすがトッティ。そういうところ、本当トッティらしいよね。
大きなあくびをしたあと、染みる潮風に目を擦る。現在の時刻は午前五時過ぎ、天気は雲ひとつない快晴。絶好の海釣り日和とも言えよう。打ちつける波の音と遠くで聞こえるカモメの鳴き声、時折吐く自分自身の溜め息以外に聞こえてくるものはなく、バケツの中は空のまま、持参した撒き餌だけが順調に減っていく。もうこの一箱で最後か、と独りごちる。また、溜め息をひとつ。それを見かねたカラ松兄さんがまたしつこくボクに絡んでくる。
「何だ、寂しいのか? 普段、ドライなお前がえらく珍しいじゃないか」
「そりゃあね、ボクだってたまにはこんな気持ちにもなるよ。こんなときに冷静でいられる方がどうかしてる」
「オレには充分、冷静に見えるけどな」
「そ、なら良かった」
カラ松兄さんこそ、気分はどう? と問いかける。今さっきまであんなにペラペラと調子よく動いていた口は固く閉じられて、少し眉間に力が入ったような顔つきに変わる。本当に分かりやすいよね、そういうところ。黙んなよ。
ボクはカラ松兄さんの前ではいつだって、カラ松兄さんの理想(なんて言うのもおかしな話なんだけど)の姿であり続けたかった。そう、理想の弟であり続けたかったのだ。そんなもんがあるかすらも分からないのに、分からないまま、知ろうともしないくせに、そうでありたいと思って願って、そうしてきたつもりだった。もしもボクがせめて妹だったなら(それもどうなの)、兄弟なんかではなく遠い親戚だとか、上手くいって男同士の友だちでもいい、とにかく同じ顔をした同じ性別の同じ屋根の下に住む人間同士になる運命から少しでも逃れることができていたなら、今頃こんなところにはいなかったんじゃないか、とか。大袈裟に現実逃避をしながらありもしないことばかりを考えていた。本当のボクは、本物のボクは全然ドライなんかじゃない。それは今、あんたが一番良く分かっているはずだよ。
カラ松兄さん、ボクはあんた以外のものに一切興味を持てない弟失格なのさ。
「もしもオレが死んだら、トド松、お前の手で葬ってほしい。方法はなんだっていいさ、お前が一番いいと思ったやり方で頼む。信頼してるぜ、マイスゥイートブラザー! グッドラック!」
「いや、祈るなよ幸運を。無責任だなぁ、ほんと」
信頼。その二文字がどれだけボク自身にひどく、ドス黒く一生解けることのない呪いのように焼きついたか知りもせずに言うもんだから、腹が立つ。腹が立ちすぎて全身の皮膚が裏返しになってしまいそうだ。ボクはそんなものをあんたに望んだことは一切なかった。信頼してほしいなんてこれっぽっちも、思ったことはなかった。ただボクと同じように、それ以上の大きさの愛を返してほしかったんだ、と今なら言える気がする。言えたところでもう、何もかも遅いけど。
失って初めてその大切さに気づく。とか、クソイタい恋愛ソングの歌詞なんかにありそうな言葉に頼りたくはないのだけれど。まさにそうとしか表現しようのない今のボクの気持ちは、魚のいない海に向かって無意味に餌を撒くことで少しは整理されていってることでしょう。もしそうでなかったら、今ここで海に飛び込んで泡となって死にます。
「トド松」
「なに」
「ありがとうな」
「……何いきなり! 気持ち悪っ! せめてアジの一匹でも釣れてからにしてくんないかな? 本当……カラ松兄さんは、ボクに甘いんだから」
「いきなりじゃあないぞ、オレはいつだってお前に感謝してる」
「……でもまぁ、兄さんのそういうところ、大嫌いだったし、大好きだったよ」
「過去形かよ」
「はいはい」
大好き、だなんて気味が悪い。冗談も程々にしてほしい。そんな生温かいもんじゃないって分かってるから、余計に嫌になる。一番肝心なことは言葉に出せない、臆病者のまま。別れの時は近づいてくる。残り一掬いとなった撒き餌用の餌を発泡スチロールごと持ち上げて、空中で逆さにする。その瞬間風が吹いて、その桃色がかった粉が舞う。空と海の青色によく映えるそれが、スローモーションでボクの視界を横切った。あぁ、なんて美しいのだろう、とさえ思った。記念に写真にでも収めて、インスタにアップしても良かったのだけれど、さすがにやめておこうと思った。これは世界で一人ボクだけが見た景色で、ボクだけが見た最後の姿であってほしかったのだ。
「カラ松兄さん」
「ん?」
「ごめんね」
「……何だいきなり」
「ボクのわがままに付き合ってもらっちゃって、さ」
「ハン、何だそんなことか」
カラ松兄さんはしゃんと背筋を伸ばし、指先までキレイに両手を大きく広げ言う。さぁ、オレの胸に飛び込んでおいでトド松! と言わんばかりの渾身のポージングである。
「兄貴はいつだって、可愛い弟のわがままを聞いてやるもんさ」
からの「バーン☆」というポーズと効果音が全てを台無しにしたが、結局カラ松兄さんはこんなことになってもなおカラ松兄さんのままで、カラ松兄さんはボクの前で徹底的にカラ松兄さんであり続けた。完璧に演じ続けてくれた。しかしそれも、暗にボクが望んだことだったので、これ以上の異論はない。弟失格に付き合って、共に兄失格にはなってくれないあたり、カラ松兄さんらしいなと思い自然と笑いが込み上げてきた。「何だ? 何かおかしかったか?」と、不思議そうにボクの顔を覗き込んでくる。ああ、もういい。そういうの、いいから。
「カラ松兄さんはおかしいよ、ボク以上に」
冬の朝、水たまりに張った、薄い氷の膜のようだと思った。これが今までボクと同じ人間だったなんてとても考えられないほどに、それは冷たく脆くなっていた。普通なら釘を打つために使う金槌でこんなにも簡単に粉々になってしまうのだから。ボクはひたすらにその金槌を振り下ろし続け、その度、振り下ろす度にパリンパリンと音がして砕けていく。粉々に、バラバラに、なっていく。頭も胸も腹も、内臓までカチンコチンに凍ってしまっていて、腕も脚もアレも。そのあまりに現実離れした光景に、血の気が引いていき危うく失神しかけたが、それでもボクは一心不乱に壊し続けた。粉々になった、粉々にしたカラ松兄さんを大きめの発泡スチロールに詰め込んで何日もかけて海に通った。家族、兄弟にバレないように早朝の二時間をそれに費やした。レンタカーを走らせ海に向かった。登山や囲碁、ジムやランニング、ホットヨガや料理教室、今まで色んなものに中途半端にハマってきたボクだったけれど、まさか大事なバイト代をはたいてまで海釣り用の立派な釣竿を購入するとは予想もしていなかったのだ。ボク、いやボクらにはお馴染みのあの釣り堀がお似合いで、ろくに魚がかかりもしないあの場所で、ビールケースを逆さにしそこに腰掛けどうでもいい会話を交わし合いながら時間を浪費する。それで充分だった。もちろん今もそう。でもまぁ、最後だし? 最後くらいはさ、と思い、ボクはカラ松兄さんの好きな海にこうして来ているのである。何だかんだボクも兄想いの優しい弟なのかもしれないなと、すでに風にさらわれて運ばれて目では見えなくなってしまった最後の一掬いに名残惜しく目を細めながら、その場に腰を下ろした。相変わらず、竿は動かないまま、バケツも空っぽのまま、発泡スチロールも空になった、ボクの心も同じだ。
初めの頃はボクの他にも周りに何人か釣り人がいたのだけれど、気がついたらいつの間にか誰一人としていなくなっており、このスポットにはボクだけになっていた。そりゃそうだ、こんな風に一人でぶつぶつ喋ってるやつの近くで釣りをするなんて気味が悪くて仕方がないだろう。釣り人のおじさんたちの間で「ヤベェやつがいる」と噂にならないことだけを祈る。
釣り始めの頃、一人のおじさんがボクに声をかけてきた。「撒き餌かい? 何か、独特なにおいだね」と言われたので、「ええ、少し味噌っぽい? ですよね……自作なんですけど。だからなのかな、シブいっすね」と返せば、「はは、まぁ頑張んな」と背中を叩かれた。その人も今はもういない。
先ほどカラ松兄さんは「寂しいのか?」とボクに尋ねた。寂しいのかどうか、今は正直分からないけれど。今まで、確かにボクは寂しかった。ボクの想いと兄さんの想いが重なり合うことがないと分かって。何年も何年も寂しい思いをしてきた。その寂しさから解放された今、ボクはどうだろう。不思議と心は晴れやかな気もするし、そうじゃない気もしている。白か黒か選ぶのは疲れる。人生はいくつもの選択の上で作り上げられていくものだというのは分かっているつもりだが、どうしても選べないことだってある。それじゃあいけないのだろうか。
カラ松兄さんは、選択をした上で死んだ。
真逆の未来が、大好きなバラの花の色をした日々が待っていたというのに、こうなることを自ら選んだのだ。自分と自分を愛してくれる人の幸せより、可愛い可愛い弟のわがままを受け入れて死んだ。人生に一度の幸福な瞬間を迎えることなく、人生に一度の瞬間をボクの手で迎えることを選んで死んだ。
そんな優しすぎるボクの兄さんは、死んだ。
ボクは兄さんの左手の薬指にはめられていた銀色に輝く指輪を握り締め、海に向かって、波に運ばれ砂浜に打ち上がってしまわないように、遠く遠く、できるだけ遠くに投げ捨てた。それだけはどうしても、壊せなかったのだ。
病めるときも、健やかなるときも、あなたを愛し、支え、共に歩むことを、誓いたかった。
でも気がついたんだ、こんなのは愛じゃない。
by AO
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