火葬/一十四

 煙の臭いがする。

 長い、長い煙突が空に伸びていて、晴れているのか曇っているのか、朝方なのか夕暮れなのかそれもよく分からないが、煙はゆっくりゆっくり途切れることなく漂っていた。見ていると、そんなつもりはないのに眼球のピントが勝手にズレていく。だから、よく見えない。伸びる煙の線がダブって何本にもなっていく。脳が上手く働いていないらしくて、煙突をずいぶん眺めてからようやくこう思った。

「あぁ、だから煙の臭いがするのか」

 煙が出ているから、煙の臭いがする。当たり前のこと。

 煙は白かった。何を焼いているのだろうか。

 遠くから黒い服を着た前歯の大きな男がやってきて、どうして黒い服を着ていないのかとおれを叱る。

「ミーがせっかく貸してやったのに」

 何故黒い服を着なければいけないんだろう。ぶつぶつと文句を垂れ続ける男をずっと眺めて、これもずいぶん経ってから考えが至った。喪服か。とするとこれは、葬式なのだ。辺りに人の影は見えないし、ここはきちんとした火葬場にしては狭く思うので式かどうかは怪しいが、とにかく死んだものを燃やしているのだ。あの煙は。

 弟が――。

 弟が死んだ気がする。薄ぼんやりと。

 弟は二人いるけれど、明るい方の弟だ。およそ死んだ、ことが信じられないような男だ。

 どうして死んだんだろう。

 回転するように緩やかに脳が動いて、時間が巻き戻っていく。

***

 前歯の大きな男と、向かい合わせに座っている。

 どうやら喫茶店の一角のようだ。店内に他に客はいない。扇風機の回る音がしていて、随分前にウエイトレスが気まずそうに水を置いていった。その水が、机に変な影を作るので、おれはそれをじっと見つめた。瞬く間に、コップが汗を掻いていく。冷たそうな氷が微かな音を立てて溶けていく。やがて、窓際だから。真夏の光が差し込んで影を作るのだと、気が付いた。

 前歯の大きな男はイヤミというのだ。思い出した。昔からの知り合いだが、二人きりで喫茶店に入るような仲ではない。それをイヤミも分かっているようで、「で、何ザンスか」と面倒そうに会話を進めたがっていた。おれからこの店に誘ったのだろうか。いつ、どこで、何の用があって?

 家族に言えないことを相談したかった。そうだ。家族に相談できなかったらあとは他に相談できる人間なんて、数えるほどしかいない。そこでどうしてイヤミかっていうのは、それは。

 この男なら、詳しい気がしたのだ。

「……死体ってさ」

 自分でも不穏な語り出しだと思う。イヤミがごくりと唾を呑む音が聞こえた。

「なんで、臭いんだと思う?」

 イヤミは正直な男だ。顔を見て「それを聞いてどうする?」と言いたげなのがすぐに分かった。だけど、おれが押し黙っていると、恐怖でも覚えたのかちゃんとした答えをくれる。

「そりゃチミ、死体は腐るから臭うザンスよ」

 至極当たり前な世界の法則みたいにイヤミは言ったけど、そうか、腐るのかとおれは思った。まるで初めて聞いたみたいに、耳に新鮮に。そうかあれは、腐っているんだってシナプスが光って脳を駆けていく。

「どうすれば、臭くなくなる?」

 おれはまた、聞く。イヤミの眉間がぴくりと動いた。怒っているというよりは、質問の意図が読めずにいるようだった。

「どうって。……埋めたりすればいいザンショ」

 何故か小声でイヤミは言う。顔を寄せられると前歯が刺さりそうで、思わずちょっと身を引いた。

「埋める」

 おれはバカのように繰り返す。乾いた唇がパリと音を立てたけれど、水を飲む気には何故かならなかった。今、水を口に含んだとしてもそのまま垂れ流してしまいそうだと思う。あんなに欲しかったはずなのに。いきすぎると逆に体が拒否するらしい。喋るのもなんだか変にぎこちなくしかできなくて、喉が機能を見失っている。正体不明の何か衝動みたいなものに突き動かされる――というより、押し流されるように無理矢理、おれはこの体を動かしているらしかった。

 義務。義務かな。おれは何かの義務を感じている。

「それか、焼くザンスよ。この時期、早くしないと」

「焼く……」

 イヤミには悪いがどうにもおれの壊れかけた脳は、口に出しておうむ返しをしないと理解ができないのだ。死体は臭い。腐っているから臭い。埋めるか焼くかしなくちゃいけない。どうも簡単なことらしいが、おれには上手く繋げられない。

「何なんザンスか、チミ。質問が怖いザンスよ!」

 おれが愚鈍なので、イヤミは痺れを切らしたらしい。どん、とテーブルを叩く。コップが揺れて、水が零れそうで。咄嗟に手を伸ばしてコップを押さえた。

 冷たかった。

 皮膚が、コップの水滴を吸い取っていく。

 氷は溶けていたから、本当はさほど冷たくはなかったんだろう。でもおれには酷く清涼に感じて。そうしたら急に激烈な喉の渇きを思い出して、気付いたらそのままコップを呷っていた。一瞬だった。水は一瞬でなくなって、舌や粘膜を冷やし喉を滑りそのまま内臓まで落ちていく。「飲む」というより「落とした」という感覚だ。

 少しだけ、視界が鮮明になった。目を上げる。

 イヤミは細い目を吊り上げて、怒っていた。いや、やっぱり、怖がってもいるのかもしれない。おれが、不気味だから。

「し、死体がどこかに、あるザンスか? ミーは本当にヤバいことは、御免ザンスよ!」

 イヤミは、そんなに怒っているのに、声だけは荒げなかった。頻りにウエイトレスの目を気にしているようだ。そんなに美人だったかなあ、あの子。

 溶けるように思考がまた飛んでしまった。何だっけ、何を聞かれたんだっけか。

 死体がどこかに、あるのかって?

「分からない」

 おれは正直に答えた。分からなかった。おれには、何も。

「ただ、臭い」

 ただ、酷い臭いだった。それだけは確かだ。

 イヤミは、おれの返答に、思いっ切り顔をしかめてから。

「……チミも充分、臭いザンスよ」

 そう、言った。

 おれは、何週間着ていたか分からない自分の服を見下ろす。全く気が付かなかったが、言われてみれば体のあちこちが痒くてたまらない。頭を掻くと真っ白な何かが机や椅子に散っていって、ウエイトレスが「ヒイッ」と悲鳴を上げるのがここまで聞こえてきていた。

 店内に他の客がいないのは、おれのせいだったのかもしれない。

***

 ブーン

 四畳半くらいだろうか。

 ボロいアパートの一室。

 いや、四畳半だ。間違いなく四畳半だった。だって自分で選んで決めた部屋だったから。

 ブーン

 その部屋は臭気で満ちていた。

 窓は開け放たれている。揺れるカーテンもないが、微々たる風は吹いている。だけどそのくらいでは酷い臭いを吹き飛ばせはしないようだった。

(くさい)

 くさい、くさい、くさい、鼻が曲がりそうだ。吐きそうだ。だけどおれは、何もない四畳半に座り込んだまま動くことができない。直に肌に触れている畳のざらつきが不快だが、動く気力も起きない。腕や足が重い荷物のようだった。こんな重いものをわざわざ動かそうなんていう気持ちが、心のどこからも湧いてこない。もう二度と動けない気もしていた。

 ブーン

 いつからおれはここにいたのか、ずいぶん長いことトイレにも行っていない。何も飲んでいないから行きたくならないのだ。開け放たれた窓からは殺人的な太陽光がおれを刺しにきていたが、だんだんと汗も掻かなくなってきていた。呼吸を小さく浅く、繰り返す。このままでいられるならば何てエコなんだろうか。この臭いさえ、なければな。

 ブーン

 畳のことが心配だ。借り部屋だから。なんで畳が心配なんだっけ。ああ、そっか、おれがずっとここにいるから、おれの尻の形に汗染みが残っちゃってないかが、心配なんだっけ。それよりもずっと凶悪な染みが、ある気もするんだけど。どこに? あー、くさいな。

 ブーン

 それにこの、音だ。何の、音だろう。うるさい、さっきから。ブーン、ブーンと。何かの稼働音だろうか。ブーン。冷蔵庫かな。いや、そんなはず、ないな。電気は、止められているはずだ。

 ブーン

(ああ、そうか)

 おれは音の出どころを知覚する。目を上げたわけではない。そんな動作一つ、億劫だった。

 ただ思い出したんだ。窓にもたれかかっているものの存在を。

 ブーン

 それに無数のハエがたかっている。たかって、飛び回っている。ハエ共は脱力したおれの腕や足の先にも時折、止まったり歩いたりしていた。

 おれの視界、顔を動かさないで済む範囲に飛んできたハエが、ペットボトルをよじ登っている。そうだ。あれ、水だ。水、まだ、入ってる。飲まなくっちゃ。死ぬよって言った。死ぬ、よ。って。誰が言った?

 ――十四松。

 ばちん!

 閃いたその瞬間、おれの掌がハエを潰していた。潰れたハエの体液や足の欠片で気持ち悪い感触、悪寒が背筋を駆け抜ける。それでおれは、寸でのところ、生にしがみついた。

「あついね」

 それが、十四松との最期の会話だった。それっきり、十四松は動かなくなった。

 ハエがたかっている。窓枠にもたれて座り込んでいる十四松の顔は崩れて、もう、よく見えなかった。

 おれは吐いた。指一本動かせなかったのによくそんな力が残っていたな、と自分でも思う。空っぽの胃からは黄色い体液が出るばかりで。

 畳に広がるゲロの海で、何匹かのハエがまた、死んだ。

***

 首を伝って水が服の中に入り込む。その僅かな不快で、おれは薄っすら目蓋を上げた。快と不快の中間だった。乾いた口の中が湿ったのは心地良かったし、肌が濡れたのだって気持ちいいと言えば気持ちよかった。暑かったのだ。眩暈がするほどに。

「あは」

 飲んだ、とペットボトルを傾けながら十四松は言った。口はアホみたいに空いていたが「笑った」って感じでもなかった。「あは」って言っただけだ。その違いくらいは分かる。

「水道、止まっちゃった、にーさん」

 十四松のガラガラ声を、おれはどこか遠くに聞いている。「あついね」って言いながら十四松は、顎を拭った。酷い汗であるように見えた。それなのに顔色は赤いどころか、青白い。

「お前、やばいんじゃない」

「人のこと、言えるの?」

 おれに、おれの顔色は見えない。おれも似たようなもんなのかもしれなかった。

 十四松は、公園から水を汲んできてくれたらしい。いくつものペットボトルを、何もない畳の上に並べている。籠城でもするつもりなのか。それとも水を置くことで、このクーラーのない地獄で涼を取るつもりなのか。日差しは容赦なく畳を白く光らせていて、きっと無駄だろうなとおれは思った。すぐに水はぬるくなってしまう。すぐに水は蒸発する。

 そうしたら、おれたちは。

 クズでゴミのおれたちは、クズでゴミの搾りカスの一番端みたいなこの部屋で。

 互いに、助け合うことも、できずに。

 十四松は少なくともおれを助けようとしてくれていた。だけど、おれは。何にも、できない。だってこんなおれに、一体何ができるっていうんだ? もう、じゅうぶん、がんばったんだよ。おれなりに。蝉の声がしている。蝉の声がしている。蝉の声がしている。あんな風にもうがんばれない。夏が生気を根こそぎ奪っていく。夏は、元々嫌いだけれど。「殺される」と思ったのは、初めてだ。

 どん、と音がしたのでそちらを見る。すると十四松が、部屋の真ん中で倒れていた。それはもう、棒みたいに真っ直ぐ。

「……十四松?」

 声をかけたけど、動かない。とりあえず息はしているようだった。

 そのときは。

***

 腹が痛くて仕方なくて、トイレで踏ん張っても何も出ないし、とにかくつらくて仕方なかった。だいたい、共用便所でそんな長いこと踏ん張れないし。脂汗を掻きながら床をのたうち回るくらいしかできなかった。

「にーさん、しっかり。産む? 産まれちゃう?」

 腹を擦ってくれる十四松の冗談に、笑って返せる余裕がない。

 腹痛の原因は明白だ。道端の草を鍋で煮込んで食った。あまりにも腹が減りすぎていた。あまりにも、金が、なかった。そりゃ、そうっすよね。当たり前だ。何の草かも分からねえ、あんなの。食える草だったとしても、どんな雑菌がついてるか知れない。犬がションベンかけてるかもしれないんだ。それを食って平気な十四松の方がおかしいのだ。

「そうだっ、野球、野球のこと考えれば大丈夫だよ、一松にーさん! 野球しりとりしようよ、結構ムズいからさ、痛いこと忘れちゃうってきっと……」

「うるせえな!」

 腹の中で化け物が暴れ回っているかのような激痛の上、耳元で聞かされる十四松の声に耐えられなくなっておれは叫んだ。

「やきゅう、やきゅうってうるせえんだよお前は、それしかネタねえのかよ!」

 怒鳴りつけてしまってから、「しまった」と思った。顔を見ながら怒鳴るんじゃなかった。十四松の表情が凍り付いて、そのまま、沈んでいくところを、見てしまった。

 分かってた、八つ当たりだって。十四松は必死におれを励まそうとしてくれていた。

 だけど十四松って男は、ギャグじゃないことがとことん苦手なのだ。ギャグ特化の体当たり人間なのだ。その辺りのことは、おれが一番、分かっていたはずなのに。その励まし方があまりにヘタクソで、ヘタクソにお義理で笑ってやることに、疲れてしまったんだ。おれは。

 おれの疲れが分からない奴じゃない。十四松は敏感にそれを感じ取って黙った。長い、長いこと黙っていたように思う。おれはあんなにつらかった腹痛よりも、この沈黙の方が。外側から全身、肌に刺さって痛いような気がしていた。

「二人だと、うまくいかないんだね」

 やがて、ぽつりと十四松は言った。

 うまくいかないっていうのはどういう意味なのか。ボケとツッコミ的な意味なのか。それとも生活の相性の話なのか、仕事のことか。全部、全部のことなのかもしれない。

 おれは一週間前。十四松は三日前に、仕事をクビになったばかりだった。金がないわけだ。

 どうしてうまくいかないのだろう。もどかしくて、泣きそうだ。

 何より兄弟と、この弟とうまくいかないってのが、おれはキツかった。こいつとならなんか、生きていける気がしてたのに。なんでだろ。こいつなら何でもやってくれそうだし。おれだってさあ。

「一人の方が、よかったかなあ」

 そんなこと、言わないでくれよ。十四松。おれだって……。

***

 家を出たときはさ。

 うまくいくって思ったんだ。根拠もなく。うまくいくはずだって。

 みんな、家を出た。なんと、あの、おそ松兄さんでさえ出てった。

 おれたちは出遅れた。最後に二人、残されてしまったんだ。

 おそ松兄さんが出たなら、他のみんなが出たならおれたちだって出るしかない。それは分かっていたけど、正直おれは、一人で生きていける気がしなかった。

 十四松は、鈍感なように見えて人一倍敏感な奴だ。おれの気持ちに気付いていたんだろう。何にも言わなかった。何にも言わないまま、一緒にいてくれた。気付いたら荷物を纏めて、部屋を決めて。息をするみたいに。

(思えばそこから、間違いだったのかもしれない)

 六人でいないのに、「六つ子の一松と十四松」でいるのは不自然だった。なんていうのかな……おれたちのキャラクターって、六人もいるうちの一人だからこそ成り立っているっていうか。二人でいるとおかしいのだ。おれは暗すぎるし、十四松はうるさすぎる。

 それでも、おれたちは、兄弟で。ずっとそうして生きてきたから、「そう」いるしかなかった。「そう」じゃないおれのやり方が分からないし、「そう」じゃない十四松も想像できない。そもそも兄弟が兄弟のまま二人で暮らすこと自体、違和感があったんだ。

 例えばどこかで、関係性が変わったならば――。

 もしもの話、恋仲とか。そこまでいかなくても互いに、特別な関係だったなら、あるいは。

 おれは「兄の一松」でいる必要はない。なかったと思う。十四松だって「弟」である必要がなかった。うるさくなくても、ギャグを言わなくてもつまんなくても良かったんだ、きっと。もっとずっと、普通のただの人間として自然でいられた。今ではそんな風に思う。

 器用な人間なら兄弟のままでもそうできたのかもしれないけど、おれたちは二人ともドがつくほどの不器用で。口下手で、コミュニケーション下手だった。

 溺れるような違和感の中、思えば十四松はずっと優しかった。「弟」や「六つ子の十四松」の仮面の下でいつも、傷付いていた。

(ごめん)

 あの、腐って溶けた顔がおれの罪だ。日本の葬式がどうして基本的に火葬なのか、おれは今になって根本を理解する。この湿気の多い国で、真夏が暑すぎるこの国で、グズグズしていると死体はすぐに傷んでしまう。

 もっと早く、燃やしてやるべきだった。そうしたらきれいに。きれいに。きれいな灰になって……真っ白な骨になって……。

(ごめんなさい)

***

 煙の臭いがする。

 晴れた夕焼け空に、長い長い煙突が伸びていた。煙はゆっくりゆっくり途切れることなく漂っている。見ていると、そんなつもりはないのに眼球のピントが勝手にズレていって。インクを垂らしたように鮮やかに滲んだ。大きく息を吸う。煙の臭いを胸いっぱいに含んで瞬きをすると、涙が、頬を零れ落ちていった。

 十四松が死んだ。あの白くたなびく煙は、弟を焼く煙だ。

 優しくて不器用で体当たりで。

「……さん!」

 馬鹿で可哀想な――。

「にーさん!」

 おれの、一等大事な弟――。

「にーさんってば!」

 うるっせえなあ、今しんみりシリアスやってんだよ、引っ込んでろ十四松!

 ……と、流れるように肩を叩く手を振り払ってから、はたとおかしなことに気付く。

 呆然と振り向くおれの眼前。

 火葬場に、十四松が立っていた。

「えっへっへ」

 笑ってる。十四松が肩を揺らして、いつものだみ声で笑ってる。大きく空いた口。一本立ったアホ毛。おれと同じ顔。

 …………。

 ………………。

 ………………は?

「もー、にーさんがなかなか葬ってくれないから、ぼく生き返れなかったんだよ!」

 あんなことがあったっていうのに。あんな、腐った、崩れた顔を見たというのに。もうそれを幻にしてしまう圧倒的強さで十四松が立っている。あのバカみたいなお揃いの、黄色い服で。年中履いてる短パンで、靴下で、スリッパで、地面にしっかり立って。夕陽が影を作って、存在感を持って。立って動いて、おれの目の前で。煙で、燃えて、あの煙突の下にあるはずなのに。十四松の死体が――。

「……はっ……」

 あらゆる感情という感情が腹底から溢れ出てきて、その中には多分、怒りや憎しみもあったと思うんだけど。肺から大きな空気の塊を出したら、全部どうでもよくなって、おれはへなへなとその場に崩れ落ちてしまった。

 ――理不尽ギャグマンガで、よかった……。

 一番上にある感情は、それだった。悔しいことに。今まで理不尽ギャグマンガであるばっかりに様々な酷い目に遭ってきたというのに、こんなときだけ、降って湧いた理不尽に心底から感謝した。

「腐った死体だってさ、ギャグにしようと思えばなっちゃうよね。実際マンガになったらこのお話だってギャグだよ。だって赤塚センセーの絵で描かれたら、ねえ。ぼくの死体だってね!」

 死んだばかりだというのに元気に、十四松は不謹慎を口にする。何が面白いのかケラケラ笑いながら。おれはもう、安堵が強すぎて、返事もできない。

「だけど、ぼくたちにとっては、ギャグじゃない」

 十四松の瞳がつやっと光る。あんまり深い夕焼けに照らされて、白目が赤く染まって見えた。

「死体も臭いも、ぬくもりも全部、ホンモノ」

 言われておれの中に、十四松の死体のリアルさが蘇る。また戻しそうになったし、すぐに忘れてしまいたい。ギャグなんだから。

 だけどもきっと、忘れちゃ、いけないことなんだろう。

 読者が忘れても。

 作者が忘れたとしても、おれたちの中で永遠だ。

 十四松、と呼びかける。もう何度呼んだか分からない名前だ。犬を呼ぶように。叱るように。怒るように。なだめるように褒めるように、喜びを分かち合うように、何度も、呼んだ。今のは少し、緊張で震えて裏返ってしまったので、もう一度。

「十四松、おれは、やり直したい」

 いつから、どこから、どうやってか、分からないけど、ちゃんとやり直したいと思う。もう死体は見ない。腐らせない、今度は一人で、死なせない。

 生き返ってそれって、ギャグとしちゃあんまり面白くない展開だけど。いいかな。許してくれるだろうか。読者的にはビミョーなのは分かってるけど、十四松はどうだろう。お前が許してくれるのなら、おれはそれで。

「…………」

 十四松が黙るので、おれは自分の鼓動を数える羽目になる。まるで告白をして、その返事を待つみたいだ。やめろよな。おれに限ってそんなこと。おれたちはそんなんじゃ――。

 そんなん――なのかな。実は?

「……ぼくも、」

 やり直したいです。神妙な言い方をして十四松はやがて、笑ってみせてくれた。だけどその笑顔は、上手く表現できないけどあまりにも十四松らしくなくて。夕焼けが頬を照らして、酷く印象的で。

 それを見ておれは、ああやっぱり十四松は死んだのかもしれない、と思った。きれいに、きれいに燃えて、白い骨になった。

 きっとそうだ。きっとそうでも、おれは。

 ――ああ、煙の匂いがしている。



by しそみやまれお


葬 -sou-

[音]ソウ(サウ)(呉)(漢) [訓]ほうむる 死者をほうむる。また、その儀式。